歴史の近所
歴史の近所


 安藤忠雄事務所に勤務していたころ、新入所員は事務所の近くに住むことが多く、私も例に漏れなかった。 事務所の周囲は中崎町や中津など、大阪の中でも個性的で人情味あふれるエリアだった。 近所でのエピソードには事欠かないが、まずはある定食屋の話を書いてみることにする。

 席に着くと、関西のおばちゃんの典型という感じのママが注文を取りに来る。 安藤事務所の新入所員は白シャツにジャケットを着て、それでいてネクタイを締めないから、周りのサラリーマンたちとはすぐ見分けがつくのだろう。 「はーっ」とうれしそうな悲鳴を上げ「安藤さんとこのかい?」と聞かれる。 「そうですけど」と言うと、「そりゃあ大変やなあ、よおけ食べて精をつけんと!」といって、ランチタイムの定食を大盛りにしてくれるのだ。

 この大盛りが尋常ではない。ご飯だけでなく、おかずも山盛り運ばれてくる。キャベツがぎっしり敷かれた大皿に目玉焼きが5、6個。 そしてメンチカツもごろごろと5、6個。さらにパスタまでどっさり乗ってやってくる。20代半ばだったから、食べ盛りではある。 しかし、いくらなんでも多すぎる。先輩は「胃袋を破壊しにくる勢い」と表現していた。それでもママの厚情を無下にするわけにはいかない。 これを食べ切ってきた事務所歴代の先輩方に恥じぬよう、そしていつかここへやってくるだろう将来の後輩にも同じようにサービスしてもらえるよう、 今の私は食べ切るしかないのである。

 頻繁には無理だったが、怖いもの見たさもあったのか、ふと行きたくなることがあった。 暖簾をくぐったときの「はーっ、安藤さんとこの!」と元気なママの声が今ではなつかしい。これは、事務所の歴史があってこそだろう。 地域の人々からも仕事を認められ、愛されてきた、そんな事務所で働けて良かったと思う。