美しい景色
美しい景色


 藤野可織の短編集『おはなしして子ちゃん』に、とても印象的な景色の描写がある。人生で最も美しい景色の記憶についての話だ。

 学校のいじめから逃れるように忍び込んだ放課後の無人の理科準備室で、普段は閉まっているはずの遮光カーテンがなぜか開けっ放しになっていた。 窓際に堆く並べられたホルマリン瓶が西日にぎらぎらと照らされ、蛇やカエルなど無数の白い生物たちが「ひとかたまりの雲のように」輝き目が離せなくなった。 後に「私」はあのときの倍以上生きて、外国を旅し登山やダイビングもしたが、これを超える光景には出会っていない。人生でいちばん美しい光景だったと回想する。

 記憶は、その時の心情や経験と結びつけられ整理されるものなのだろう。人生で最も美しかった景色は、テレビや写真で見る景色そのものの美しさと違い、 人によって様々なストーリーがあり魅力的だ。

 私の場合は大学生1年生の記憶が思い浮かぶ。当時暮らしていた福岡を原付で移動していた。 キャンパスがあった六本松と繁華街の天神を結ぶ国体道路は、別名「けやき通り」とも呼ばれ、秋には並木が見事に紅葉する目抜き通りである。 大学生活が始まってから半年、紅葉のトンネルの下を走っていると、突然強い風が吹き視界一面に黄色い葉が吹雪のように舞い散ってきた。 地元を離れ初めての一人暮らしを始めたこと、大学での新しい出会いの数々、中古バイクショップを巡って見つけた絶版車の原付は、 このあと数か月ほどで故障してしまったこと… 美しい景色が、哀愁を伴い記憶に焼き付いている。

 私はいまだにこれを越える美しい景色には出会っていないように思う。感受性が鈍ってきたのかと自問もするが、古い記憶は反芻する回数も多い。 あなたの人生で最も美しい景色の記憶は何だろうか。そのときあなたの人生はどのような時期だったのだろう。機会があれば尋ねてみたい。