住宅設計
住宅設計


 幅広い建築設計の中でも、個人住宅は、建築の全てのエッセンスが凝縮していると教えられた。 規模の大きなプロジェクトでは、多くのスタッフが関わり分業と専門化が行われるが、個人住宅の場合は、設計から現場監理まで1人が一貫して担当することが珍しくない。 そのため建築の過程を一度に経験することができる。

 私が以前勤めた設計事務所では、住宅の設計依頼のほとんどを断り、1,2年に一件のみを受けていた。 住宅は手間がかかる割に利益にならないから、事務所としては受けたくない。しかし若手所員のよい勉強材料になるからたまには、というのが理由だった。

 「これはあなたの勉強だから、事務所の勤務時間以外でやれ」と言われた。普通の感覚ならパワハラだのブラック企業だの非難されるところだが、 アトリエ系設計事務所で働くこと自体が修行のようなものだから、千載一遇のチャンスとばかりに「やらせてください」と答えたことを覚えている。

 夜10時の終業後、事務所は施錠されるので、毎日近所の喫茶店に移動して作業を始めた。古民家を転用した隙間風だらけの喫茶店で、300円のコーヒー一杯で粘っていた。 二十代半ばだったから体力があった。大体深夜一時を回ると壁にゴキブリが出現し、人間の時間は終わったなと、荷物をまとめ帰路についた。

 その喫茶店では、なぜか毎晩かかるヒラリー・ダフの曲があって、サビの「My love is not up for negotiation」の『love』を『boss』に変えて口ずさんでいた。 「私のボスは交渉の席にはつかないの…」 甘えやこちらの言い分の通じる相手ではないが、人を育てようという気概のある人だった。 「元気よく、根性を持ってやれ」と叩き込まれた。当時は辛かったが、人の倍以上、濃密な時間を過ごすことができたように思う。

 私は今、独立してから初めての住宅設計に取り組んでいる。地元の同級生の家だ。時間と手間ばかりかかる。それでもいいものを作りたいと、沸々と湧き上がる想いがある。 概して著名な建築家の出世作は個人住宅であった。これもまた千載一遇のチャンスである。「元気よく、根性を持ってやれ」何度もよみがえる声がある。