野生の声、孤高の音
野生の声、孤高の音


 中学生の頃に百人一首を暗唱するという国語の課題があった。印象的だったものは、今でも覚えている。 猿丸太夫の作で、山奥で紅葉を踏み分け鳴く鹿の声を聞くとき秋の哀愁を感じるという内容だが、鹿の鳴き声とはどんな声かと訝しんだ記憶がある。 はたして、それほど心に染み入る声なのだろうか。

 東北大震災から2年ほど経った頃、復興の状況を実際に見たいと思い、仙台からレンタカーを借りて海岸線沿いを数日かけ北上した。 建物の基礎だけを残して消えてしまった集落の跡などを目の当たりにしながら途を進めていると、街灯も無くなった夜道で、車の前に突然、鹿の群れが飛び出してきた。 こちらを見る彼らの目がヘッドライトに反射し爛々と輝いていた。すぐそばの消えた集落にまだ人の営みがあったころ、この辺りに彼らはいなかったのだろうと思う。 人が去り、自然が押し寄せてきた象徴のように感じた。あちら側とこちら側。人間界とは違う世界の生き物のようであった。

 私の地元の秋祭りでは、だんじりの運行に合わせて太鼓と鐘が鳴らされる。この鐘の擦り棒には鹿の角が使われる。 金属製の棒で鳴らしたときと鹿角で鳴らしたとき、明らかに鐘の響きが違うのである。乾いた音になる前者に対し、 後者は、しっとりとした音色となり、祭りの秋空に響いていく。私にとっては、この鹿角の鐘が何故か気高い音に感じられる。

 家畜やペットとなる動物と、飼い馴らせない野生動物の違いは何なのだろう。先人たちは、動物の気質や生態を見極め、 犬や猫、牛など特定の種に対し長い時間をかけて共棲できるように選択交配を行ってきた。 結果として生まれた家畜やペットは、人と共棲しなければ生きてゆけなくなった動物ともいえる。

 留学先のイギリスは、街中に野生動物がいて、リスやキツネを日常的に見かけた。入寮の日、寮長から「キツネはWILDだから、近寄らないように」とガイダンスを受けた。 WILDとは何か、最初はよくわからなかった。ある朝、外へ出ると、キツネがごみ置き場を漁っていた。 こちらを鋭い目で一睨みし、牙をむきギイと小さく鳴くと、踵を返しどこかへ行ってしまったが、 この小さな動物と目が合った瞬間、私はなぜか動けなくなってしまった。この動物はWILDなのだ、餌をくれとかそんなレベルではない。

 馴れ合いを許さない野生が、私たちの世界のすぐそばに存在していることを都会での暮らしでは忘れてしまう。 猿丸太夫の和歌に話を戻すと、秋は農村では実り豊かな楽しい季節なので、哀愁につなげるのは都会の貴族の感性だという解説を聞いた。 あるいは、忘れていた野生を思い起こす音として短歌に詠んだのではないかと私は思う。彼らの鳴き声は、野生の声、孤高の音である。